Aruyo

函館西高校吹奏楽部日誌を返却

挑んではことごとく失敗している断捨離。一気にやるのが難しいならちょくちょく捨てていくしかない! と一つ購入したら三つ捨てよの法則を続けていくうちに、解体したダンボールから引っ越しの中で埋もれてしまっていたブツを発見した。

ああ、ようやく出てきた。

函館西高等学校吹奏楽部日誌('73)、ちょっとした手違い? から入手したものである。1973といえばGMEN75よりちょい前。母校の創設より6年前の日誌がなんであったのか謎だけど、ライフログとか文献的なものが好物の私としては、この日誌を大切なものとしてくれる人がいるんじゃないかという思いだけで、まったく関係ないのにずーっと保持し続けていた。

酔狂なものである。

その「大切なものとしてくれる人」即ち「届けるべき先」を今まで探さなかったかというとそうでもなくて、その証拠みたいなもになるので当時パソコン通信で函館西高等学校について訪ねているログのプリントアウトが残っている。感熱紙でうっすらとしか読めないけど、いちお転記しとこ。

校名が変わったという情報は一体どこから入手したんです!?
確かに変わりました………申し訳程度ですけど。
旧・・・・「函館有斗高等学校」
新・・・・「函館大学付属有斗高等学校」
只名前が長くなっただけという気もしない訳ではないですが、、。
さてさて、西高の住所ですけど、調べが着きましたぜ。
〒040 北海道函館市元町7-17 函館西高校吹奏楽部
こけでOKの筈ですます。
これは電話帳を使って調べました。うーむ、便利だ。

(後略)

メガネ

タイムスタンプは1988年6月4日の20時40分。教えてくれた「メガネ」さんありがとう。でも、なんもしてなかった...所在がわかったのにその後のアクションをしていないからこうして手元にあるわけで、すまぬ。

この日誌が自分の荷物に紛れているのに気がついた当時の事は、すっかりおぼろげな記憶になってしまっていて曖昧なのだけど、学校の部室から引き上げた荷物を片付けた時からそう間が無い頃に気がついている(はず)。理由は不明だけど、兎にも角にも部室に戻さずにそのまま保持していた。私の卒業後の部については(無責任極まりないけど)「存続していたかすら怪しい」ので、きっと戻していたらゴミとして捨てられていたのだと思う。

あと、記録は無いけどmixiでも招待されてそう経っていない頃にどこかのコミュニティで聞いたような気もする。もしそうなら2004年がmixiのサービス開始だからその年か翌年あたりだと思う ( 私がmixiに参加したのはローンチから5ヶ月後の7月だ ) けど、まだ卒業生コミュニティが無かったのかもしれない。

その後もふとした機会に思い出すくらいには忘れてなかったのだけど、だからといって何処にしまい込んだかはわからず、日誌も届けるべき先も敢えて探すことはしていなかった。東京と千葉で何度か転居してるけどダンボール箱から出した記憶もない。

そして今回だ。

この機会を逃したら次はいつになるかわからない。今ならTwitterがあるし確度も高い。今度は確実に!!という気持ちで柄にもない「拡散希望」をつけて投げてみた。しかし、普段からのほほんとしてるしフォロワー少ないし、インフルエンサーとしてのスペックが低い私が拡散の種になれるわけがなく、リツイート2件の惨敗。

なんだろう、とても恥ずかしい気分になってしまった。それでもしばし間をおいてみて、今度はTwitterで見つけた函館新聞社さんに投げてみると同時に、ホームーページを検索して函館西高等学校にもメールしてみた。

メールのほうは吹奏楽部の顧問をされている方から返信があったけど、日誌を記録として保管していたりとかはしないようで、学校側としてはOB会を紹介しTwitter共々反応が無かったら預かります、という感じ。繋ぎをとってくれる事を期待したけど、歴史が長いだけに在籍者が多すぎての難しいのかもしれない。

函館新聞社さんのTwitterからは良い反応を頂いて、記事として掲載してもらえる運びとなった。本来、こういうのは記事広告みたいなもんで掲載料が発生するものだと思うけど、報道として扱ってもらえたようだ。

こうなればもうハンドルは函館新聞社さんに預けておこう。私としてはできるだけ多くの「当時の部員」に見ていただければ目的は果たした事になるので、函館新聞社さんが繋ぎをとってくれるは本当に助かった。

そして、無事に記事になった。

44年前の西高吹奏楽部日誌、なぜか福岡で発見

青春の思い出を取り戻してください―。1973(昭和48)年度の函館西高校吹奏楽部の日誌が、なぜか福岡県在住で、同部と関わりのない男性(46)の自宅から見つかった。男性が千葉県の高校に通っていた時期に吹奏楽部の部室で発見したというが、日誌がなぜ部室にあったのかは謎のまま。函館新聞に情報を寄せた男性は持ち主を探しており、「思い出をお返ししたい」と話している。

見つかった日誌はノート1冊。男性によると、87(同62)年ごろ、千葉県の東京学館高校で吹奏楽部の部長をしていた際、部室を整理している最中に発見したという。

年月を経てセピア色に染まり、くたびれた日誌は73年6~9月に書かれたとみられ、部員たちが日々の練習内容や、その時々の気持ちをつづっている。

「今年の一年生に告ぐ。中身のあるおもしろい日誌を書いて下さい」(6月7日)から始まり、「一年生、帰るのが早い! もっと練習してゆけ!!」(同13日)など先輩から後輩への叱咤激励、夏休み目前の7月13日には「バスケットは合宿をやるそうです。なぜ吹奏楽部はやらないのですか?」など、内容はさまざま(いずれも原文まま)。中には鹿部町で交通安全パレードに参加したとの記述や、当時の人気アイドル郷ひろみさんの写真を切り抜いて張ったページもあり、当時の流行や世相を感じさせる。背表紙にはメンバーの名前と担当楽器が記され、まさに青春時代がぎっしりと詰まった一冊だ。

男性は高校卒業後、何度か引っ越しを重ねながらも、日誌を捨てることなく所持してきた。高校在学中の88年6月にはパソコン通信を使って西高の所在地を尋ねた記録があり、住所は把握できたが、部の関係者まではたどりつけなかったという。今月、福岡県久留米市の自宅で押し入れの荷物を整理していた時に日誌が見つかり、本紙の公式ツイッターに情報を寄せた。発見当時の記憶があいまいだとしながら、「楽譜を回収する時に紛れて一緒に持ってきたのでは」と話す。

当時の高校1~3年生は、現在だと60~62歳前後にあたる。男性は「しっかりとした日誌で、当時の部員たちにとっても思い出があるのでは。皆さんで集まった時に見てもらえたらと思う。忘れずに返したい」と、当時の部員たちが名乗り出てくることを心待ちにしている。

函館新聞社

この記事は提携先のヤフーニュースにも流れたため、テレビ朝日の「羽鳥慎一モーニングショー」とKBCの「アサデス」という番組から取材のオファーが来たりもした ( こちらは後にOB会がTV取材に難色を示したためにすべて水に流れている ) 。

さらには函館のFM局でもとりあげられ、地元の新聞とFMのチカラでOB達の間ではちょっとした騒動めいたものになっていた模様。それがきっかけで経緯などが徐々に見えてきた。大まかな流れはOB会のblogに詳しいので抜粋する。

今日1日、電話やメール、グループLINE等々、少々対応に追われました!(笑)
そして、今ひとつ事の次第が分からない若いOBOGのために・・・

きっと・・・たぶん・・・
昔々(笑)、1980(昭和55)年頃、西高が改築工事のため現在の極東ロシア大学函館校(昔の白百合高校)に仮校舎として移転。
当然吹奏楽部の部室の物も捨てたり移したり、大変だったそうです。
その部室の中に紛れ込んでた1973(昭和48)年の日誌です!(他の年の日誌もあったはずですが!?)

当時、私もその日誌を見たことがあるような!??
もう30年以上も前の話しなんで、記憶も証拠も残って無いんですが・・(笑)
森山くんはじめ当時の方々の記憶と照らし合わせますと・・・
たぶん、たぶんですよ、想像ですが!
上記の西高移転の時、最初私の手元に届いたのかも・・・です?
きっと、夏の宴会でみんなに見せて、千葉の東京学館の教師だった森山くんが「自分の教え子たちにも見せたい!」ということで貸し出したのではないかと!??
その後、森山くんも異動などがあり、すっかり忘れてしまった!!!
森山くんが勝手に持ち出すはずもなく、貸し出しのGOサインを出したのは私かも?!
ということは、私にも責任ありますね!m(_ _)m
そして、長い年月が経ち、全ての人が忘れてしまい・・・
函館新聞に載ったということです!

1973年当時の部員数人の方々からも連絡が来ました!
「いいね、懐かしい!」「ロマンを感じます。」などなど・・・
森山くん、大丈夫ですよ!
今年の夏の宴会、この話で盛り上がりましょう!!!ヽ(^o^)丿

つゝじケ丘吹奏楽団 - 函館新聞~西高吹奏楽部の古い日誌

この森山さんという方が東京学館高等学校で教鞭をとりながら部員と共に楽器を吹いていたらしく(顧問ではなかった模様)、昭和61年3月まで在籍していたとかなんとか。私が青森山田高等学校から転入したのは翌年の5月(2年生)なので、顧問や3人居た先輩ならひょっとしたら接点があったんではないかと思う。

その頃で部員5人+幽霊部員1名しか居なくて私が加わったわけだけど、そういう先生が居たのは聞いたことがなかった。部室という名の準備室というか小さな物置部屋はかなり雑然として放置のあまり棚の物が傾いてなだれ込んでたりしていたし、楽器を床置きするスペースもギリギリだったので、部室にこのような日誌が存在していた事すら誰も知らなかったかもしれない。

その後、部員の減少で活動が著しく低下した吹奏楽部 ( これについては引き継いだ私のやる気がなかったのが悪かった ) に変わり、軽音楽部が音楽室と部室の利用について主導権を握ることになったため、置きっぱなしにしていた自分の楽器や写譜のほか私物を引き上げる際にこれが紛れてしまったと思っている。

距離的には青森山田高等学校のほうが近かったので、うっかりそこから持って来ちゃったのかとも思ったことが何度かあったけど、親の急な転勤が決まって部活も春休み中で部員にも会えず顧問に挨拶して楽器と小物を回収するのが精一杯だったため、入手の経緯はそっちではないと信じていたのが正解だったようだ。

かくして、エアクッションで梱包された日誌は函館へと旅立っていった。最後にはこんな形で伝わると思わなかったので、ちょっとしたサルベージ体験になってしまった。でも、これで無事に30年の肩の荷が降りた気分でスッキリ。ずっと頭の片隅に入れていたこの日誌のこともようやく忘れることが出来るというものだ。

改めて、函館新聞社報道局様とつゝじケ丘吹奏楽団様には御礼申し上げておかねば。どうもありがとうございました。