飲酒総量を比べて考える
先週から鈍い痛みだったり違和感だったりと何かと様子がおかしい内臓さん。食欲がない時が増えて食べる量も減ったりとか。昨日からもちょっと痛みが増して変質したのでいよいよ病院に行こうかと考えている。
お店で大将に何気に話しをしてみたところ、胆石で入院した時がそんなだったとか言われる。あー、わしも人間ドックに入った時に見つかったけど二十年くらい大切に育てているな。それなのかもしらん...。
熱い飲み物を入れたりすると胃のあたりにくるのでてっきり胃だと思っていたのだけど。臓腑とすればきっと酒の呑み過ぎ。私、あとどれくらい呑めるのかな。それなりに呑んでるけど、仕事で呑みまくるような職業よりは少ないと思ってるけど。
そこでふと、稲作効率や作量が小さかったりとか物流も限定的だったりとかした昔の人ってどれくらい呑んでいたのかと気になった。
元禄年間(1688~1704)には上方から21万石の酒が入ってきていたという。当時の人口を70万人とすると1人あたり年間54リットルも飲んでいたことになる。一升瓶に直すと30本だか、70万人には子どもや下戸も含まれるから、それを省いたとすると江戸の人々はかなりの量を飲んでいたわけだ。
[飲酒量が多かった江戸時代、酒はいくらだったか : 東洋経済]
一月あたり二升半。貧困層や子供に下戸がどれくらいの割合だったかはわからないけど、明治の人口ピラミッドが綺麗な三角形だったりとか江戸時代の医療レベルを考えると、飲める人は二倍の五升くらいいってそうな気もしている。
続く平安京の造酒司では9百石の米で6百石の酒を造っていた。当時はすでに水田が全国で100万町歩に広がって100万トン米が収穫できていた。当時の人口を600万人とすれば一人当たりの米の生産量は明治時代と同じくらいあったから支配階級では米が主食になり,酒を醸造する米に不足することはなかったのであろう。
酒の醸造には寒造りが定着して品質が安定し,酒の名産地が各地に現れた。 特に伊丹,池田, 灘の酒は評判がよく,上方から江戸に酒荷専門の樽廻船で運ばれる酒は下り酒といわれ, 文政4年(1821年)には122万樽にも達した。当時の江戸の人口を100万人とすると,年間,一人当たり4斗入りで1樽,72リットルにもなり,アルコール換算にすると10リットルを超えるから現代より多い飲酒量であった。
[日本人の飲酒動態 : J-STAGE]
別の文献だと平安京の頃にはなかなかの収量になっていたみたい。明治以降に飛躍的に伸びているので現代とは比べようもないけど、酒の製造は安定してたと予想。
消費量については100年ちょい経つと人口も酒量も上がってる。一升瓶で40本、一月で3.33かあ。これも人口で単純な割算だから実際は七升近いのではと思っちゃう。
当時は焼酎もそれなりにあるはずだけど日本酒で考える。アルコール度数15として、7*1800*0.15でアルコール1890㎖、これに比重0.8をかけると1512g/月となる。私は度数25の焼酎で月で一升とちょいくらいなので、だいたい400gくらい。
三から四倍くらいかぁ、肝不全が多そうだ。